前回予告通り、私のための私の告解ブログである。 思いっきり暗いので、興味ない人はここで回れ右!
ブーの息が浅くなってから絶えるまで、8時間かかった。 夜中でなければ獣医に駆け込み、安楽死の処置をしてもらっただろうと思う。
しかし、死に至るまでそんなに長引くとも思わなかったのだからそれも結果論だ。 この一週間は、ブーの苦し気な息遣いと、最期の事切れる瞬間が何度も何度も 脳内再生され、胸をかきむしりたくなるような思いに駆られた 。
悲しみだけではない。深い絶望と激しい後悔。
直後は、飼い主としてちゃんと最期を看取ったという達成感さえあったというのに…
安易な安楽死を選ぶ人が多い、ここアメリカの人たちに抵抗があった。 だが、自然死にこだわった私だって、結局のところ自然死をさせたいという人間側の都合ではなかったのか? 最終的には、ブーを苦しめたのではなかったか?
ギリギリまで続けた皮下輸液が、 ブーを楽に逝かせる足枷になったのではなかったか? もう食べなくなってたのに、シリンジでの流動食もやめられないでいた。
積極的治療はやめると決めていながら、 今まで何度も何度も蘇ってきていたから、その希望を捨てられなくて、 結局のところ、私はいつものように薬も続けていたのだ。
あれも悪かったのでは、これも良くなかったのでは? こうすればよかった、しなければよかった。
そんな堂々巡りな問いを繰り返した一週間
苦しい息の下、ブーやんと呼びかけると、ハッと瞳に生の輝きが戻り、 私の頬に何度も顔を寄せてきた愛らしいブー 苦しいよと言わんばかりに、私の顔を見て鳴いたブー ごめんな、ブー 助けられなくてごめんな、ブー
もう延命治療をしないと決めたのは私なのだ。 ブーの体は限界だったからだ。 だから、この結果は飼い主である私がすべて負って当たり前。 いろいろ間違ってしまったかもしれない選択も、いつか私が天国へ行ったら謝りたい。
ブーが怒ってないのはわかってる。 ブーが私に怒ったところなんて、今まで見たことなんてないからだ。 優しい優しいブー。
それでも、ごめん。一番最後にしんどい思いさせてごめん。
私がジメジメ泣いていると、夫が言った。 「違うよ。ブーやんがそんなに長く頑張ったのは、 僕が帰ってくるのを待ってたからだよ」
最期を看取った私はいろんな場面で後悔し、実家に帰っていてわずか10分間に合わなかった夫は夫で後悔している。 愛するものを見送るというものはそういうことなのだろう。
皆は言う。 後悔ばかりしていては、ブーやんが悲しむ。 もう天国で楽になったのだから前を向くべき。
正論である。実際、私も今まで人に掛けてきた言葉である。
しかし、悲しいほどに心を素通りする。 掛けてくれる人がどうこうではなくて、 受け入れる私の心がReadyではないだけだろう。
時が癒してくれるんだろうか?
まだ一週間。もう一週間